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シベリアのシャーマン

ロシアにシャーマニズムが存在することは、10年くらい前に「アルタイの至宝展」の
民芸品販売を依頼されたとき、この地方独特のものをと、探したことがきっかけに。
らしいものを探すうちにその土地をアピールするためのいわゆる民芸品ではなく、
個人や家族を幸せにするためのお守りに行き着いた。
木彫りのお守りは朽ちて落ちた木を削って作られる。生きた木からは作らない。
これにシビレた!
シャーマンって何?シャーマンは地元の人々にとってどんな存在なのだろう?
思いは膨らみ、やっとこ、今回会いに行くチャンスを得たのです。

ブリヤート共和国からイルクーツクへ8時間かけて鉄道で帰り、イルクーツク市内から
車を大草原をぶっ飛ばして3時間半、シャーマンがいる村へ。
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道中はブリヤートの原風景。

イルクーツク市内から村までの間、何ヶ所か儀式のための神聖な場所がある。
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ここを通るときは足を止め祈ったり、車で通過するときはコインを投げる。
投げないと本当に車がパンクしたり事故に遭ってしまうのだそう・・・。

もうひとつ目に入ったのは道端にある植物にカラフルに巻かれた布。
あらかじめ用意した布だったり、身に着けていた布だったり、を巻き、
ある人は成功を願ったり、ある人は旅の安全を祈ったり。
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ブリヤートでは広い範囲でこの風景が見られる。
日本の神社でおみくじを巻くのと似ている。
ブリヤートでもこの習慣の由来は実は分かっていない。
いつしかそういった習慣が人々の間で広まったのだそう。

シベリアのシャーマニズムは宗教以前の古代から伝わり、
心身ともに病んだ人、悩める人を祈祷により癒す。
世界の平和を唱える宗教とは違い、シャーマニズムは個人、または家族の幸せを祈る。
自然すべてに神が宿り、特に太陽神はエネルギーの源、大いなる神であると考えられ
生活すべてにこの理念が生きている。
日本の「八百万の神々」が存在する神道ととてもよく似ていた。
シベリアを知るにつれここに住む人たちにとってシャーマンの存在はあまりにも大きく
それは神に近いものを感じた。

シャーマンの中でも地位のようなものがあるらしく、今回お会いできたのは
もっとも地位の高い方でロシアだけでなくヨーロッパ、アメリカ、インドなどでも
有名なのだそう。20歳から修行に入り、30歳のときに先代の一番地位の高い
シャーマンから指名されたそうです。

門を入り、庭を抜け、木造のゲルの中へ入る。そこが儀式の部屋。
中央には囲炉裏があり天井には抜け穴がある。
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ゲルの作りとしてはどこの家庭でも同じだが、ここの場合、天井の穴は
太陽神と交信するため。たとえば白樺でできた器に人の悩みを入れ太陽神に投げるのです。
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1924年に作られた白樺の器で先代から譲られたものだそう。

シャーマンといえば色がどす黒く風呂は半年に一回、仮面をかぶった貧弱なじいさん・・・
というどこで作られたか私の勝手なイメージがあった。
由緒正しいブリヤート・シャーマンは違った(当たり前じゃ!)
暖かくおおらかな人柄、かっぷくの良い体格に青いブリヤートの民族衣装が風格を高める。
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儀式は薬草、香、練香水の3種をかぐことから始まる。体を清めるため。
手を合わせ合掌。シャーマンが3つの楽器を使い音を奏で歌う。
ブリヤート語とロシア語を混ぜたその歌はとても美しい響きで
懐かしくやさしいリズムだった。

日本の神道にアマテラスやスサノオの神話があるように、シャーマニズムにも
物語がある。その物語をリズムにのせ歌ってくれた。

私は二人の娘を連れて行っていたのでシャーマンは一緒に踊りや歌を教えてくれた。
いろいろな話しを聞き、最後に彼は「何か質問などないですか?」と言ったので
私は娘たちに「何かこの機会だから聞いときなさい。」と言うと
娘たちは大きな存在のシャーマンを目の前に頭は真っ白になりしどろもどろ。
シャーマンはさっと長女の手を取りじっと見つめ、
「君は3年くらいしたら大きく人生が変わるよ。将来は男の子と
女の子の二人の子供を持つ。」
それを聞いた次女がすかさず手を差し出した。
「君は安定した人生、我が道を行く。3人の子供を持つ。」と言われた。
私は見てもらうのが怖かった。すでに子供は3人いる。この流れでいくと
「君はあと2人子供を持つ。」なんて言われそうな気がして・・・。合掌。

世界中から毎日彼を訪ねてくる。この日もすでに次の人が待っていた。
イルクーツク市内からもいろいろと相談しに来る人が多いと聞いた。
本当に重い病の人もいれば、恋の相談をする女子もいるそう。
こ、恋~!?この果てしなく遠い村の位の高いシャーマンに恋の相談ですかぁぁぁ?と
最初は笑ってしまったけれど、私も20代の頃はそれが生活のすべてだったような・・・
遠い遠い過去だけれど。それだから若い女性は輝いていて周りの人も思わず笑顔に
させる魅力があるのだと思う。シャーマンも大変だとは思うけど、それに対しても
まじめに懸命に答えてくれるのだそう。大したお人だ。合掌。

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バルガンと言うシャーマンの太鼓。
これは地方により名前が変わり、アルタイではカムス、ヤクートではホムス。
どこの地方も神を意味する言葉だそうです。

10年来の思いが叶った。
シャーマニズムはとても身近でそう遠くない頃の記憶の中にある。
ただ経済力がすべての政治やそれを追う人間の忙しい生活の中で
記憶のプログラムが組み替えられてしまっている気がした。
食べる分だけ殺生をする、必要な分だけ木の実を採る。
世界を守るためなんて格好のいいことは言わない。
自分の家族を守るため精一杯のことをする。
幸せや成功は人それぞれ、もっと違う生き方があることを教えてくれる。
・・・・会えてよかった・・・・


次回はシベリアの観光名所イルクーツクをご紹介します ~シベリア紀行 つづく~




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ウラン・ウデ市内~レーニンとダライ・ラマとチンギス・ハンが生きる街~

シャーマンに気が焦ってしまいましたが、その前にブリヤート共和国の
首都ウラン・ウデについてご紹介しましょう。
前前々回民族や経済について少し触れましたが、街並みも面白い。
象徴はソビエト広場にあるどでかいレーニン像です。
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今風に言うと「メガ・レーニン」でしょうか。
しかも頭だけ!画像では分かりにくいかもしれませんが頭部は高さ7.7m。
台座が6.3mあるので迫力あります。重さは42トン!!
というか、首根っこだけでよく立っているな・・という感じです。

チンギス・ハンの像はないのですがここで知り合った人にチンギスという名前の方がいました。
例えばここではおじいさんはウクライナ人、おばあさんはブリヤート人だったお母さんとロシア人
のお父さんから生まれましたという人は多い。それはロシア全土に渡って言えることでしょう。
チンギスは見た目はロシア人。珍しい名前だということでしたが、モンゴル民族でもあるという
意思と誇りを感じます。

メガ・レーニンのあるソビエト広場の周りは政府や市の行政関係の建物がぐるり。
中には日本人抑留者が建築に携わった建物も少なくなく近年老朽化のため
解体工事をしようとしたところ、日本人が建てたものはあまりにも頑丈で
解体に時間がかかったそうです。さすが、そんな時も仕事が丁寧な日本人。
日本の誇りですね、偲ばれます。

通りを歩いているとソビエト時代有名だったバレエダンサー像が。
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よく見ると顔立ちがブリヤート人!ここはブリヤート、当たり前なのだろうけど
いつもロシアでよく見るバレエ像とはまったく違うその風格に見とれてしまいました。

ちょっと歩くとモンゴルの帽子!そう、あれはウラン・ウデにあるモンゴル大使館。
「いいね!」あげたくなりました。
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世界には国境近くで多くの紛争が起こっている。
ここは互いの文化も習慣も民族も認め合い、いいところを取り入れて共存している。
たまに起こる紛争といえばブリヤート人がロシア人の彼女を奪った!奪わない!で
ブリヤート対ロシアの民族紛争に繋がるそうだが・・・しょ~もなッ。
いつまでも平和な国であれ。

よっしゃ、次はシャーマンに行けるかな・・・シベリア紀行つづく・・・



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ロシアの中のチベット仏教

ブリヤートにはチベット仏教寺院イヴォルギンスキー・ダツァンがある。
イヴォルギンスキーとはブリヤート共和国の首都ウラン・ウデから23km
離れたイヴォルガ村のこと、ダツァンとは寺院のことです。
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宗教の自由がなかったソビエト時代の弾圧で多くの寺院は破壊され
ラマ(僧)は殺されたけれど、地下活動など屈せず今に息づいている。
1992年にダライ・ラマ14世がこの地を訪問してからは教徒の勢いもあり
新しい寺院建立、資料館の建設が活発に行われている。
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資料館の中はまだ製作中のラマの像がいくつかあった。
若い僧侶や信者の手作り。

マニ車の中には経文が書かれていて、回した数だけ教を唱えた徳がある。
中には身長をはるかに超えるものもあり回すのも結構大変。
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この村は道はあるけど「通り」がなく住居の区画がない。
なぜなら家を建てるときはラマに相談しラマの指示通りの
位置(土地)に家を建てるそう。
ただそれでいいなと思う風景なのです。
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それぞれの信仰がぶつかることなく寄り添っている、そんな感じを受けます。
シベリアにはもうひとつ大切な信仰があります。
シャーマニズムです。次回ご紹介いたしましょう・・・。
シベリア紀行つづく~。

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ブリヤート・無形文化遺産セメイスキエ

ブリヤートにはロシア正教の宗教改革を拒み伝統的な儀式を守り続ける古儀式派セメイスキエ
が存在します。彼らの伝統的な習慣や文化は2001年UNESCOの無形文化遺産に登録されています。
私が訪問したのは300年も続くタルバガタイ村。(タルバガタイと名づけられたのは75年前)

まずはその土地の文化を知るということで資料館へ。
古いサモワールや鏡、商人の秤など・・・独特なものとして部屋の中や家の塀などの壁画は
鳥や植物など自然をモチーフに色鮮やかに描かれている。
これらはその家主たちがそれぞれ描いてきたものらしい。みんな絵心あるんですね~。
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村の本陣、ロシア正教会。宗教改革を拒んできたので儀式は昔のまま、考えはより
ギリシャ正教に近いそうです。
布教活動などは一切しない。
なぜならこの考えを支持するものは自然と世界から集まってくるからだそうです。
彼らは宗教とはそういうものだと感じている、これも古儀式派の理念なのでしょう。
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セメイスキエの民族衣装を着たご婦人たちのお・も・て・な・し!
「ようこそ!タルバガタイへ」
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最初のお・も・て・な・しはお料理。基本的にロシア料理ですが、このご婦人はかなりの料理上手ゥ~!
蜂蜜を発酵させたメドブーハ(手前のコップ)はこれまでロシアで飲んだ中で一番美味しかった!
バイカル湖のオームリを使った「魚のパン」(中央)臭みもなく香ばしい。
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豚の脂肪を塩漬けにし燻した「サーロ」
一見気持ちが悪い!?かもしれませんがこれは最高に美味しいのです!!
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食後のお・も・て・な・しは素敵な庭での伝統的な歌と踊り♪
結婚式の歌は「式で初めて会う相手。裕福な家庭の人を望んでいたけど、とても貧しい人だった。
悲しくて涙が出るけれど、その人は心優しくて、幸せになれるかも・・・」といった内容。
とても現実的でまったく涙が出る!結婚式で歌うか?と思うけれどユーモアも含め
ここの人たちは明るい。今でも結婚式は1週間お祝いが続くそう。
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ロシアの民族衣装は基本的に白地に赤い刺繍のものが多いのですが
この地方はチベット教の影響を受けて極彩色を何枚も重ねた鮮やかで独特なものです。

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南はモンゴルへ、西はバイカルへ流れるセレンガ川。
昔ながらの生活を守り続けるセメイスキエの源。
ずっとずっとこの景色が変わらないことを願います。

まだまだ続くシベリア紀行・・・



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ブリヤート料理

イルクーツクからシベリア鉄道に乗りタイガの森をバイカル湖に沿って抜けると
約8時間でブリヤート共和国の中心都市ウラン・ウデに到着します。
鉄道の途中いくつもの小さな駅を通過しますが、駅舎が青色に染まっていく。
その様はだんだんとブリヤートに近づいていることを教えてくれているのです。

ブリヤート人は世界でも一番日本人とDNAが近いと言われています。
知らない街で道行く人にも親しみを感じる。
ただ数世紀、穀物を中心に生きた者と肉を中心に生きた者は明らかに
違いが出てくることをこの目で感じてしまったのです。
ブリヤート人は体格、特に骨格が太く、手が大きい!あごもしっかりとしていて
「先祖代々ちゃんと噛んでま~す!」といった顔立ちだ。

ブリヤート原住民が住むアルヴィジィル村に行き、ブリヤート人のお宅で
ブリヤート料理を頂くことになりました。
「ようこそ、ブリヤートへ」とまずはウェルカム・チャイ!
甘みのないさっぱりしたチャイは到着後の一杯には最高!です。
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もともとブリヤートの住宅はゲルでしたが、ロシア文化の影響や
厳しすぎるロシアの気候もあり、木製のゲルを立てるようになったそうです。
ウラン・ウデの中心地ではゲルを見ることはほとんどありません。
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ブリヤート料理で欠かせないのは「ポゥーズゥ」。
これは小ぶりの肉まんにスープの入った小龍包のようなもの。
モンゴルでは中は羊の肉ですがブリヤートでは牛肉が主のようです。
ここでは「一緒に包みましょう~♪」ということで十数年ぶりに餃子の皮包みをしました。
手前の最後ひねっとけばそれなりになるか!っぽいのが私の作品・・・。
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驚いたのはこの「サマラート」という料理。付け出しのようなものでパンなどに乗せて食べるそうです。
簡単に言うとサワークリームと小麦粉を混ぜて茹でたものだそうですが
この料理も家庭により大きく味が違います。途中ドライブインの「サマラート」は一口戴いた瞬間
ブリヤートには住めないと思うほどでしたが、ここで戴いた「サマラート」はほんのり甘く
クリーミーでとっても美味しかった◎やっぱDNA近いじゃ~ん♪と豹変することができました。
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「シュルン」という麺入りスープ。出汁の味もアジア人好み!西ロシアでは一般にはない出汁です。
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ダライ・ラマがこの村に来たときに「作りなさい」といったお酒「アムリ-タ」。
松のウオッカで香りが独特、きついお酒ですが、くせが返って美味しい。
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シベリア紀行つづく・・・






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東シベリアの旅

この夏、かなてから念願だった東シベリアに行ってきました。
中世ロシアの趣きを残すイルクーツクから神秘の湖,バイカル湖を抜け
宗教も人種も異なるブリヤート共和国へ、その文化の違いの流れを
この目で見たかったのです。

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バイカル湖を挟んでイルクーツクとブリヤートがあります。

出発前から数少ない資料を集めましたが、実際は情報よりも時の流れは
速く日々変化するシベリアでした。
人種の比率はブリヤート共和国ウラン・ウデ市ではロシア人50%、ブリヤート人50%ですが
ロシア人とブリヤート人の結婚も多くなり混血が増えてきているということです。
経済発展は著しく、建設ラッシュ。物価も他のロシア各地に比べ高いという印象でした。
イルクーツク市の地価はモスクワ、サンクトペテルブルグに次ぐ3番目に位置しており、
シベリアという地域を考えると何かメリットがあるのか?と不思議でしたが・・・
中国の経済発展の流れでモンゴルは経済成長率世界3位となり、モンゴルと
密な東シベリア地区も勢いに乗っている!?のかと思います。
ブリヤート共和国はモンゴルととても友好国でVISAは1時間程度で発行してくれるそう。
ウランバートルまでは車で5~6時間なので人の流れも物流もとても盛んなようでした。

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ロシアの文化とは異なる独特のブリヤート。

とにかく日本車が多く、通りだけを見ていると「ホンダ、トヨタ、ホンダ、ニッサン・・・」
モスクワの比ではありません。中古車なので「愛羅武勇」とか「夜露死苦」的な文句を
書いたものもそのまま使われており、事実を知らないことを願うばかりです。

シベリア紀行つづく・・・

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ロモノーソフ陶磁器工房でマイカップ

ロモノーソフ陶磁器工房へはこの10年間何度も足を運びました。
掘っ建て小屋のようだった工場直営のショップは今や博物館までできました。
途中経営者入れ替えもあり名前も変わったりもしたけれどやはり「ロモノーソフ」という
響きが一番ぴったり合っている気がします。
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そこでマイカップを作ることもできます。
まずは好きなスタイルのカップをチョイス。
次に絵付けをどのようなものにするか・・・私は一番好きな鳥の文様。
あらかじめ切り抜いたパターンをカップに当て炭でパターンを写していく。
絵付けの色はちょっと古めかしい仕上がりにしたかったので茶や深いオレンジ、
深い緑色などなどを作り、いぶし銀の出来栄えを想像してわくわくしながらペン先に集中。
金属製のつけペンで絵の具を陶磁器に盛っていくのだが…これがなかなか難しい!

言葉が通じなくても大丈夫。
私 : 「これってテンテンすればいいのですか?」とテンテンするジェスチャー。
先生 : 「そう、テンテンよ~」とテンテンするジェスチャー。
工房って大好き。言葉が通じなくても、見て、作業して心が通じる。
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1年後再び工房へ行きマイカップを頂きました。
盛った絵の具は焼き上がると変化するのでいぶし銀というより
ラブリ~でファンシ~で、でもワンダホ~でした。
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タチアナ・ニクーリンに会って

私は「小さい逃亡者」の映画を語れる生き証人に会いたかった。
当時の思い出やエピソードをどうしても聞きたかった。
この映画に携わっている人なら誰でもよかった。
特にロシアでの撮影に参加している人に・・・その当時のロシア、
ロシア人との仕事、ふれあいなどを聞きたかった。
となると日本人ではとても限られていた。
主役の少年はこの撮影後ウルトラマンなどの特撮映画に参加し
わずか数年で引退していた。一般人なのでもちろんその後は分からなかった。
ロシアの俳優、スタッフを探すことにした。
大好きなユーリー・ニクーリンは他界している。監督もスタッフも。
若いスタッフの中では映画界を辞め今はどこで何をしているのか分からないという人も多い。

タチアナ・ニクーリンはユーリー・ニクーリンの奥様でこの映画にも一緒に出ている。
ユーリー亡き後サーカス団の団長でもある彼の息子を通じ、タチアナさんに会えるよう
お願いをした。タチアナさんは83歳。「体調もすぐれないからわざわざ日本から来てもらっても
会うことができないかもしれない。」とも言われたけれど、1%でも可能性があるならとモスクワへ向かった。

劇場の上階にある社長室に通された。
そこで迎えてくれたのは凛とした姿勢と笑顔が素敵な女優だった。
「体調の悪い83歳」を想像していたので彼女がタチアナ・ニクーリンであることにしばらく時間がかかった。
「ようこそ!」と手を差し伸べてくれ「さて、何から話したらいいかしら~」と映画の思い出から恋愛話まで
次々と話してくれた。主役の少年のことは本名の「チハル」と呼んでいた。
映画の仕事というよりは自分の息子より2歳年上のチハルがかわいくてたまらなかったようだ。
チハルが撮影中サリャンカの食べすぎで10Kg太ったこと、
チハルが台詞を間違え悔しくてカーテンの陰で涙を流したこと、
ニクーリン家でホームパーティーをしたときに息子とチハルは言葉も分からないのに
仲良く遊んでいたことなど・・・目を細め話してくれた。
表情、口調すべてがエンターティナーだった。
タチアナさんの取材を終えた後、隣室で聞いていたマネージャーは
「あなたが来る寸前まで
『何を話せばいいの、私は46年も前のことなど覚えていないわ・・・どうしよう・・・』
とタチアナはずっと言っていたのよ。私も恋愛話を初めて聞いたわ~。」と驚いていた。
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この世界で生きてきた人は自分の見せ方が違う。
一瞬にして幕が上がるのかもしれない。

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ソビエト映画を好きなわけ

もともと私はソビエト映画が好きでした。
同じ風景をジジジ~~~~~~っとためらうことなく映し出し
展開の遅いストーリー、沈黙の長い間、でもその中に観る者が
それぞれ何かを感じ得るものがある気がします。
ハリウッド映画に比べ同じ120分でも時間の流れ方が3倍くらい遅く感じます。
誰かが死んで誰かが勝つというようなはっきりしたものではなく
これから先この人たちはどうやって生きていくのだろう、幸せになるのか、、、
不安のままのあいまいな終わり方。それもやはり、その先は観た者に想像させ
より考えさせる作品が多いのです。

世相を反映したものが多いソビエト映画。
特に1960年代は戦争を背景にしたものが多く、戦場よりもその影で
寂しさや悲しみを背負う人たちの姿を描いたものが印象的です。
その中で生きる強さや楽しみを見つけていくので当時の人々は映画という
娯楽が何よりも楽しみだった。映画の黄金時代です。

今、私がソビエト映画を観ても同じことを感じます。
特に生きていくための強さ。

疲れたらソビエト映画か「かもめ食堂」をよく観ます。

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ロシア映画大学資料室には古いポスターがぎっちり貼られているました。

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「小さい逃亡者」~魅力を感じたもう一つの理由~

1966年に制作されその年の晩秋に何かの作品の併映として(確信たる記事、資料がない)、
翌年「ガメラ」との併映で公開されました。私のお店に来るお客様の中に数人「小さい頃、マトリョーシカ
にお願いをしながら男の子が旅をする映画があったけれど…」とうっすらながら覚えていらっしゃる方が
いました。皆さん、不思議なことに当時10歳前後。よく調べてみるとこの作品は教材指定映画として
小学校で鑑賞されたようです。ただそれ以降の公開がなく、「葬られた」作品となってしまったのには
何か理由がある気がしました。時代も時代。社会主義国との親睦の証に社会的な力が加わったか、
世論を避けるための対策か、それを考えるとたまらなく興味が増してきてしまったのです。

もちろんこの問題はどこにも資料はありません。
当時この作品に関わった人の中でもごくわずかな人しか知りえなかったことかもしれません。
今回ロシアで取材をしたロシア映画大学のルィビン教授(当時副カメラマン)は
「当時そのようなことはどこの国でもありえたことでしょう。」と話していました。
彼はこの映画に関係する人物、情報を知る人物を探すため、大学の先生を集め
手当たり次第電話をしてくれました。
でも日本とソビエトの合作に至った背景の鍵を握る人物は誰にも分かりませんでした。

謎。理想的です。



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